【現代史】「ベルリンの壁」はいつ、だれが、何のために作ったのか。そして崩壊まで

壁の前のブランデンブルク門。左側が東側で右側が西側である。(1961年)via Wikimedia Commons (CC BY-SA 3.0)

前回「『冷戦」』とはどのようなものだったのか」として、「冷戦 Cold War」とはどのようなものであったのかについて、「内容言語統合学習 (Content and Language Integrated Learning: CLIL)」の考え方を少し取り入れて英語の資料(ウィキペディアのSimple English版)を参照しながら、概略をお話ししました。

絶対に押さえておかねばならないポイントは、「冷戦」の「冷」は「武力を行使しない、兵器を使わない」という意味であり、「戦」は実際の「戦争 war」を言うのではないということ、つまり「冷戦」は、国々の「関係 relationship」のことを言う一種の比喩表現であるということでしたね。

今回は、その「冷戦」を象徴する存在――というより物体――だった「ベルリンの壁」について見ていきます。

「ベルリンの壁」とは

「ベルリンの壁」は、1961年8月に設置された有刺鉄線によるフェンスが、恒久的なコンクリートの壁として建設されたものです。目的は、東ベルリンと西ベルリンの往来を完全に遮断すること。1989年11月に機能を停止することになり、その直後にほぼすべてが取り壊されました。現在は1kmちょっとの区間が「文化財」として保存されているだけです。

下記の写真は、現役時代の「ベルリンの壁」を撮影したものです(1986年)。非常に大きな構造物であることが見てわかると思います(ひとつの街を丸ごとコンクリートの壁で囲んでしまっている状態です)。絵が描いてある側が西ベルリン、建物も人の気配もないエリアが広がっている側が東ベルリンです。

超えられない「壁」

「ベルリンの壁」はただの「境界線」「国境」ではなく、「冷戦」下で政治的に対立する東西両陣営の最前線でした。イメージしやすくなるよう、2018年現在存在する境界を引き合いに出すならば、朝鮮半島の軍事境界線が近似の例としてわかりやすいでしょう。中東情勢に詳しい方ならば、イスラエルがパレスチナのヨルダン川西岸地区に建設してきた違法分離壁(国連によって「違法」と結論されています)を思い起こすでしょう。

「ベルリンの壁」には検問所があって、そこを通れば「壁」を超えて東西を往来することはできたものの、実際には検問所の通行許可を得ることができたのはごく限られた人々でした(アンゲラ・メルケル首相のご家族は、西ドイツ出身で東ベルリン在住の聖職者でしたが、何度も検問所を通っていたそうです)。当局の許可なく「壁」を超えようとする一般市民は、壁を常時監視している軍隊によって、容赦なく撃ち殺されました。

「壁」によって何人が落命したかは、今でもはっきりしません。日本語版ウィキペディアの記事(大変に詳しいので、どこをどう読んだらよいのか、わからないかもしれません)から、該当部分を引用しておきましょう。少し日本語が乱れていますが、原文のまま引用します。

1990年から2005年にかけてベルリンの壁で越境者を射殺した狙撃兵の裁判の訴訟文書によって解明が進んだとされて、「死亡者数は合計192名」であったり、「少なくとも136名」、「200人以上」、「射殺されたは238名」、「500人以上の人々が厳重に監視された境界で逃亡を試みて命を落とした」、「壁を越えようとして射殺された人は700人を超えると言われている」、「東西ドイツ及びベルリンの境界で命を落とした者は全体で943人にのぼる」などの諸説があり、1961年から63年までの壁建設の初期の期間で把握していない部分があるとしている。

日本語版ウィキペディア「ベルリンの壁」>「ベルリンの壁の死者」

ドイツに「西」も「東」もなくなり、「東」で育ったアンゲラ・メルケルが10年以上も首相を務めている現在では、考えられないことかもしれません。分断された国は、その分断自体によって、多くの人命を奪ってきたのです。

だれがなぜ、そのような「壁」を作ったのか

30年足らずの間に数百人の命を奪った「壁」は、だれが、どのような理由で作ったのでしょうか。それを説明するためには、1945年5月の第2次世界大戦終結までさかのぼらねばなりません。

戦勝国(連合国)によるドイツの分割統治

1945年5月8日、アドルフ・ヒトラーが率いたナチス・ドイツは無条件降伏しました。これにより第二次世界大戦は終結、敗戦国ドイツは戦勝国(連合国)による占領統治を受けることになります。(同年8月に降伏した日本も戦勝国アメリカの占領統治を受けましたが、日本とドイツの最大の違いは、日本は終戦時に分割されなかったということです。)

終戦後、戦勝国のアメリカ、イギリス、フランス、ソヴィエト連邦(ソ連)は、ドイツを4つに分割してそれぞれが占領統治することを決定しました(ポツダム協定)。下記の地図 (via Wikimedia Commons, ただし文字入れ加工をほどこした) がその分割の状況を示しています。オレンジがアメリカ、緑がイギリス、青がフランス、赤がソ連の統治地域です。米英仏は自由主義・資本主義で軍事的にはNATO(北大西洋条約機構)を構成する「西側」、ソ連は社会主義で軍事的にはワルシャワ条約機構の大元締めで「東側」です(「西側」が西ドイツを、「東側」が東ドイツを管理したのは、必然というよりは偶然のようなものですが)。

この地図でドイツ全体はぱっと見てわかりますが、首都のベルリンは小さくなりすぎてわかりづらいので、別の地図 (via Wikimedia Commons) でも確認しておきましょう。

「東ドイツ」の中の飛び地、「西ベルリン」

ベルリンという都市はドイツの東部、ソ連の統治区域の中にありました。しかし首都でしたから、都市丸ごとをソ連に任せるというわけにはいかず、4カ国で分割することになりました。そのため、「西側」の3カ国の統治する区域(西ベルリン)が、「東側」の中に取り残された「飛び地」の状態になってしまっていました。

やがて「冷戦」は本格化し、西側と東側の対立が深刻になっていきます。ドイツにおいては戦後復興の方針が、米英仏管理地域とソ連管理地域とではまるっきり違う、という形で第2次世界大戦終結から4年が経過した1949年5月、米英仏の地域は西部の都市ボンを首都とする「ドイツ連邦共和国」(西ドイツ)として成立し、その約5ヵ月後には、ソ連の地域が東ベルリンを首都として「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)となりました。これがドイツの東西分断です。

東ドイツという国家の中にポツンと残された「西ドイツの飛び地」である西ベルリンは、ドイツ分断の前年には既にベルリン封鎖という試練にさらされていました。1948年6月、東ドイツを管理するソ連は、西ベルリンに通じる交通を封鎖、電力供給もストップし、西ベルリンは孤立状態に追い込まれました。これに対し、西側諸国は西ベルリンの人々の生活に必要な物資などを空路運び込むという措置をとりました。結局、この「西ベルリンの孤立」という問題は国際連合(国連)に持ち込まれ、封鎖開始の翌年に解除されました。

しかし試練はそれだけでは終わりませんでした。

「壁」の建設

自由主義・資本主義の西ドイツの戦後復興は、社会主義の東ドイツとは比べ物にならないくらいのペースで進みました。そのため、ベルリンでは東の住民が西に脱出するというケースが続出、東ドイツにしてみれば人口流出に歯止めがかからない状態になりました。それは東ドイツ当局に深刻な危機感を引き起こしました。

そして日付が1961年8月13日に変わったときに、東ドイツ当局は突然西ベルリンを包囲します。深夜のことで、市民はだいたいみんな寝ていました。その間に、西ベルリンと東ドイツとの交通を全面的に遮断して、西ベルリンの境界線に有刺鉄線を張り巡らせたのです。市民にとっては「不意打ち」といってもよい事態。西ベルリンに親戚や友人のある東ベルリンの人は、このあと、その親戚や友人と会うことはできなくなりました――1989年に「壁」が崩壊するまでは。

境界線に設置されたのは最初は有刺鉄線でしたが、ほどなく、コンクリート製の壁が東ドイツによって建設されました。そもそも、単に西ベルリンを切り離すのが目的というより、東の市民を西に行かせないこと(人口流出をストップすること)が目的です。東ドイツの側では、壁から100メートルの範囲は立ち入り禁止ゾーンとされ、果敢にも壁を越えようとする人々は、上述の通り、見張りの兵士に見つかれば殺されました。

チェックポイント・チャーリー

東ドイツ当局にとっての問題は、東ドイツ市民が西に流出してしまうことでした。だから西ドイツの人や外国人は検問所を通って東西ベルリンを行き来することができました。外国人が通れた検問所が「チェックポイント・チャーリー Checkpoint Charlie」です。この検問所は映画や小説にもよく出てきます。スティーヴン・スピルバーグ監督の『ブリッジ・オブ・スパイ』でも、緊迫したシーンがありましたね。

ベルリンの壁崩壊後は、この検問所の建物は一度取り壊されましたが、現在は復元されて観光名所となっており、すぐ側の建物は博物館として整備されています。

リック・スティーヴさんというアメリカの旅行情報専門家が「ベルリンの壁とチェックポイント・チャーリー博物館」を解説・案内してくれるビデオがあるので、見てみてください。長さは3分足らずで、言語は英語ですが、字幕(クローズド・キャプション)を表示させることができます(字幕の表示方法については、こちらの記事をご参照ください)。

パンク・バンドの歌う「ベルリンの壁」

この「チェックポイント・チャーリーを通っていくベルリン観光」を歌っているのが、ロンドン・パンクを代表するバンド、セックス・ピストルズの『さらばベルリンの陽』(原題はHolidays in the Sun, 1977年リリース)です。バンドのYouTube公式アカウントでPVがアップされているので見てみましょう。英語を聞き取ろうとする必要は全然ないので(聞き取れないと思います)、音楽として楽しみながら映像を見てみてください。

バンドのメンバーは実際にベルリンを観光したことがあり、この曲はそのときのことを歌ったものです。「太陽さんさんのリゾートなんざ、おいらにゃ要らない。おいらが行きたいのはニュー・ベルゼン(『ベルゼン』はナチス・ドイツのユダヤ人強制収容所のひとつ、ベルゲン・ベルゼンのこと。壁に囲まれたベルリンのことを、ピストルズは『まるでベルゲン・ベルゼンだ』という意味で『ニュー・ベルゼン』と表しています。辛辣ですね)。歴史を見るのが目的だ。だっておいらの経済状況、そこそこよくなってきたし」というのが最初の方の歌詞の内容。

そして「そこそこよい reasonable」にかけるように、”Now I got a reason” (「おいらにゃ理由ってやつがある」)と繰り返したあと、”Now I got a reason to be waiting, the Berlin Wall!” と歌います。つまりベルリンの壁の検問所(チェックポイント・チャーリー)のところで待たされているんですね。

その後は「厚さ2インチ(5センチ)の壁で音響効果は抜群。そこでおいらは共産主義者が呼ぶのを待ってたわけ。太陽さんさんじゃなきゃいやだとか言わなかったら、気づけば第三次世界大戦かよここは、みたいな。壁の向こうをのぞいたら、あっちからもおいらをのぞいてる」、「夜も昼も、ずっと見つめてる。おいらにゃここにいる理由なんかない、全然ない。理由があるって言ったけど、実はまっとうな理由なんかじゃない。でもおいらは待ってるわけ、ベルリンの壁で」、「超えなくちゃ、ベルリンの壁を。こんなもの理解できないよ。超えなくちゃ、この壁を越えなくちゃ」……という調子で、非常に鋭く、理知的に、「ベルリンの壁」という不条理な存在を歌っています。(余談ですが、ピストルズは全然暴力的ではなく、非常に理知的なバンドです。)

「ベルリンの壁」の崩壊

壁が作られてから28年の間に、米ソの対立関係(「冷戦」)は激化し、ピークに達し、そして収束していきました。1985年、ソ連は「改革派」のミハエル・ゴルバチョフが政治トップになり、日本でもカタカナで「ペレストロイカ」と呼ばれた改革政策を実施、「グラスノスチ」という情報公開も進めるようになりました。ソ連以上に閉鎖的になっていた東ドイツはその流れにはなかなか乗らなかったのですが、世界はどんどん動いていきました。

そして1989年、アメリカのブッシュ大統領(イラク戦争のときのブッシュ大統領のお父さん)がソ連の変化を認め、冷戦下の基本的な政策であった「対ソ封じ込め」を転換すると、事態は一気に加速しました。東欧は大きく変わりつつありました。詳しく書いているととても長くなってしまうので「ベルリンの壁」のことだけに絞りますが、「冷戦の終わり」が目に見える形になり、「東側」陣営のソ連の衛星国で人の動きがどんどん活発になる中、東ドイツの指導者(ホーネッカー書記長)はソ連のゴルバチョフ書記長の後ろ盾を失い、国内でも国民のデモなどが起きてついに失脚しました。

そして東ドイツは「1989年11月9日」を迎えました。

ホーネッカーの後継者となったエゴン・クレンツ政権は、1989年11月9日、翌日から施行予定の出国規制緩和策を決定した。その日の夕方、クレンツ政権のスポークスマン役を担っていたシャボフスキーはこの規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。この発表は、東ドイツ政権内部での事務的な手違いによるものだとされる。この記者会見を観た東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到し、殺到した市民への対応に困った国境警備隊の現場指揮官は11月9日の深夜に独断で検問所を開放した。11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊され、その影響は世界史的に広まった。

日本語版ウィキペディア「東欧革命」>「ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一」

その当日のアメリカABCテレビのニュース映像が、YouTubeのABC News公式アカウントにアップされていますので見てみましょう。英語は聞き取らなくてもよいので(上記のウィキペディアの引用にある内容を説明し、現地の人々にインタビューして話を聞いています)、映像をご覧ください。

こうして閉ざされていた境界線が開かれ、壁は撤去されました。あれほど厳然としてそこにあった壁は解体され、以後、一部の保全区間を除いては壁があったことを示すのは足元に埋め込まれた線だけです。

Me and the Berlin Wall

そして、「ベルリンの壁」の「崩壊」から1年も経たず、1990年10月3日には東西ドイツの分断は解消されました(ドイツ再統一)

TED-Edの解説ビデオ「ベルリンの壁ができて崩壊するまで」

「ベルリンの壁」に関しては、TEDが作成したアニメーションによる解説ビデオが、非常によくまとまっています(制作はKonrad H. Jarauschさん)。デフォルトでは英語字幕ですが、ボランティアによって翻訳された日本語字幕を表示させることができます(字幕の表示方法については、こちらの記事をご参照ください)。ぜひ、ご覧になってみてください(余力のある人は英語字幕で!)。

まとめ

2018年2月、ベルリンの壁が「崩壊」してからの時間が、壁が存在していた時間を上回ったことが世界的に報じられました。

東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」が崩壊してから、2月6日で「10316日(28年2カ月17日)」を迎えた。

「崩壊後の期間」と「存在した期間」が同じとなり、2月7日からは「崩壊後の期間」が上回る。


https://www.huffingtonpost.jp/2018/02/05/berlin-wall_a_23353594/

このニュースには、「ベルリンの壁」があった時代を知っている人々はだれもが深い感慨を覚えたと思います。SNSでは日本語のニュースも英語のニュースも何件もシェアされて流れてきました。(ちなみに、今大学で教えている先生、入試問題を作成する先生の多くが、「ベルリンの壁」を知っている世代です。)

森鴎外の見たベルリンという都市が、一度失われ、そして戻ってきた

筆者が国語の教科書で森鴎外の『舞姫』をやったとき、「ベルリンの壁」は絶対に動かせないものとして存在していたので、主人公の太田豊太郎が感銘を受けたベルリンの光景は、私たちは見ることができないのだと国語の先生が解説していました。

余は模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽ちこの欧羅巴の新大都の中央に立てり。……菩提樹下と訳するときは、幽静なる境なるべく思はるれど、この大道髪の如きウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石だゝみの人道を行く隊々の士女を見よ。……車道の土瀝青の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる楼閣の少しとぎれたる処には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲り落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多の景物目睫の間に聚まりたれば、始めてこゝに来しものゝ応接に遑なきも宜なり。されど我胸には縦いかなる境に遊びても、あだなる美観に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮り留めたりき。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2078_15963.html
※リンク先では、難しい漢字にはルビがふってありますので、リンク先でご確認ください。

国語の先生が「実に残念だ」という調子で、「鴎外のいう『あだなる美観』を、私たちは見ることができません」と解説してから何年かしたときには、その「あだなる美観」を私たちも(見ようと思えば)見られるようになっていました。そんなことが起きるなんて、だれも考えていませんでした。

そういうことが起こりうるのが、《歴史》です。決して「退屈な暗記科目」ではありません。

壁の前のブランデンブルク門。左側が東側で右側が西側である。(1961年)via Wikimedia Commons (CC BY-SA 3.0)

壁の前のブランデンブルク門。左側が東側で右側が西側である。(1961年)
via Wikimedia Commons (CC BY-SA 3.0)

次回は「冷戦」の中でどんなことが起きていたかを描いた映画を1本、見てみることにしましょう。

関連記事

【現代史】「冷戦」とはどのようなものだったのか

※追記

そういえばTwitterでこのような投稿が話題になっていました。「ベルリンの壁」は、東ドイツの中に「飛び地」状態で存在していた西ベルリンの周囲をぐるりと取り囲んでいました。単に「西ベルリンと東ベルリンの間にあった壁」ではありません。ただ写真では、ぐるりと取り囲んでいる全体像は見えないので(大きすぎるため)、このような誤解は珍しいものではありません。「壁」があった時代にもよくあった誤解です。壁がなくなって20年にもなりますから、そろそろ試験で出題されるかもしれませんね。

 

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